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当院と戦争のおはなし

2025年8月4日から6日にかけて、静岡新聞の「しずおか戦後80年」企画の一環として、当院の初代院長・岡本一男先生に関する記事が掲載されました。
岡本先生は日中戦争において軍医として従軍し、戦後は静岡県の医療および福祉の発展に大きく貢献されました。「愛は無私」という信条のもと、患者さんや地域のために尽力されたその姿勢は、今もなお私たち職員の模範となっています。
※本記事のホームページ掲載については、静岡新聞社様より許可をいただいております。

医師と戦争 上静岡大空襲電灯一つ寺玄関で手術

日中戦争時に軍医として中国へ赴き、太平洋戦争末期から戦後にかけて本県の医療、福祉に人生をささげた医師がいた。静岡済生会総合病院(静岡市駿河区)の初代院長岡本一男(1907~92年)。「愛は無私」を信条に、私欲なく人々のために奉仕した。異国の戦地で、静岡の空襲下で、多くの兵士や市民の生死を目の当たりにした医師は戦後社会に何を残そうとしたのか。足跡をたどった。

1944年、三菱重工業静岡発動機製作所の工場内診療所所員の写真。前から2列目、左から4人目が岡本一男(静岡済生会総合病院提供)
太平洋戦争末期に手術室に改造された大正寺の玄関=7月下旬、静岡市駿河区
県医師会史によると、1945年6月以降、米軍による本県各地への本格的な空襲で、県内の医療機関は静岡赤十字病院を除く大半が機能を失った。静岡市医師会史によると、同市内では緊急組織された日本医療団県支部が田中屋百貨店(現静岡伊勢丹)の焼け残った3階の一部に総合診療所を開設、戦災者を優先的に診療した。

「玄関の隙間から手術室をのぞいたことがある。岡本院長や看護婦さんは忙しく対応していた」。同区の大正寺住職の小川隆之(86)は太平洋戦争末期、岡本が診療所の疎開先となった同寺で診療していた姿を記憶する。45年4月、米爆撃機B29の空襲被害を受けた三菱重工業静岡発動機製作所(同区、現三菱電機静岡製作所)は工場疎開を始め工場内診療所は一部を残して同寺に疎開した。寺の約3坪の玄関を手術室に改造、庫裏を病室に充て、岡本と外科医1人、看護師数人が被災市民の治療に当たった。

B29が焼夷(しょうい)弾787トンを投下した同年6月の静岡大空襲は、市街地の6割以上が焼失し、市内のほとんどの医療機関が機能を失った。大正寺にもやけどの負傷者が次々と担ぎ込まれた。看護師は七輪に炭火を起こし、鍋に湯を沸かして手術道具を消毒。包帯やガーゼは小川で洗い、ボロボロになるまで再利用した。軍需工場だった同製作所には多くの医薬品が配給され、いち早く寺に疎開させておいたことは、不幸中の幸いだった。

「野戦病院さながらの生き地獄図であった」。岡本は生前、当時の様子を手記にした。足が壊疸(えそ)した患者が多く、天井につるしたたった一つの電灯の下で、毎日のように足の切断手術が続いた。自宅から約4キロ離れた寺までの往復を古びた自転車で昼夜問わず通い、寺で寝泊まりした時期も。安倍川対岸の疎開先工場にも出向き、熟練エや動員学徒の診療にいそしんだ。

岡本は、疎開に先立つ44年、同製作所付属病院の建設任務を引き受け、夫婦で名古屋市から静岡の地を踏んだ。国内に医師や看護師は足りず、農家の娘を急ごしらえの看護師に仕立て、工場内に診療所を開設した。自宅を所員の宿舎や患者の入院場所として開放し、妻郁子(故人)が慣れない農作業で食料を確保して所員や患者の生活を支えた。

15歳で同製作所に動員された焼津市の医師福地益人(96)は、診療所で岡本に対面したことがある。機械で指を切断した友人を連れて行くと、岡本は「このくらいのけがなら戦地では麻酔をしない」と言ってすぐに治療を始めた。福地は「軍医上がりで豪快な先生だったと振り返る。

そんな海外の戦地を知る岡本にとっても、国内で市民が標的となった空襲の被害は衝撃だった。静岡大空襲を振り返った手記にはこうも記した。「戦争の悲劇の生の映像として、二度と繰り返してはならないとの決意を新たにしてほしいとひたすら念願する」(敬称略)

医師と戦争 中中国戦線傷兵救命 一刻争う日々

1937年8月。戦後に静岡済生会総合病院(静岡市駿河区)の初代院長に就く岡本一男(1907~92年)は、召集令状を受けて陸軍第3師団第6連隊の第3大隊付軍医として中国・上海に渡った。命の危険にさらされながら、メスを握り続ける日々が始まった。
北京郊外での慮溝橋事件をきっかけに始まった日中の衝突は上海に及び、岡本が所属する第3師団は上海の呉淞に上陸。堅固な防衛線を敷く中国軍と激しい戦闘に突入し、岡本は傷兵の手当てに奔走した。

中国本土の「療養所事務室」と記されたテント前に立つ岡本一男(遺族提供)
陸軍第3師団長から岡本一男に贈られた「賞詞」
岡本一男は陸軍の隊付軍医として中国・上海に上陸してから2年後の1939年、第3師団第4野戦病院に転属した。治療部主任兼外科病室診療主任として、薬剤官や衛生兵らと傷病兵の治療に当たった。

40年3月、当時の第3師団長は岡本に贈った「賞詞」で、軍医の奮闘ぶりをたたえている。「患者二接スルヤ骨肉ノ至情ヲ捧ゲ自己ノ休養ヲ顧ミズ自ラ刀ヲ執リ大手術ヲ施スコト百有七十起死回生セルモノ其ノ数ヲ知ラズ」。現地の野戦病院には次々と負傷兵が運ひ込まれ、岡本は部下の手でにぎり飯を口へ運んでもらい、時には尿を取ってもらいながら休むことなく手術台に立ち続けた。

岡本の背中には、斜め一直線に入った大きな傷があった。「背丈のある茂みで進軍中に切りつけられた」。岡本の孫で静岡済生会総合病院院長の好史(63)は戦後、岡本からそう説明を受けた。岡本は中国各地を43年まで転戦し、戦場で襲撃を受けるなど薄氷を踏むような場面に何度も遭遇した。生前「生きて帰れたのは全く運が良かったとしか言いようがない」と述懐した。

長女美枝(90)=静岡市駿河区=は岡本から「(負傷兵の)足の壊疸(えそ)が進行して全身に影響が出る前に、足を切断する必要があった」と聞いたことがある。66年5月の静岡新聞で、岡本が戦地での心境について「一分一秒遅らすことによって、兵の命がそれだけ損なわれることをいたく気遣った」とする記事がある。体内にたまったうみを外に出す方法を考え出し、難治の腹部銃創の治療成功率を上げたと言われている。

不衛生な環境と医療物資や人員の逼迫(ひっぱく)が続き、破傷風に罹患(りかん)する兵土も多かった。軍が定める血清使用量では完治しないと気付いた岡本は、増量を上司に上申。その後、亡くなる兵士は激減したという。

岡本が戦地から日本の妻郁子(故人)に送った手紙には、現地の子どもとの触れ合いを楽しんだ様子もつづられている。戦後、岡本が取材に応じた話によると、中国奥地の村では、村人の診察や手術も行った。「どんな相手でも分け隔てなく治療に当たる姿は、生涯変わることはなかった」と美枝は追憶する。(敬称略)

医師と戦争 下戦後の静岡「無私」の志 地域医療に

静岡市駿河区の静岡済生会総合病院の一角に、初代院長岡本一男(1907~92年)の銅像が静かにたたずむ。台座側面には「宿願」として、岡本が起草した一文が刻まれている。「後進の者よ 願はくはこの礎をいよいよ固くし 医学の研さん医療の殿堂として人類の幸福に寄与されんことを」。混迷の敗戦時に戦火を免れた平屋2棟から始まった病院の歴史とともに、自身の信念と行動を後世に伝える。

患者を診察する岡本一男(手前中央)。1958年に撮影された写真とみられる(静岡済生会総合病院提供)
岡本一男の銅像の台座側面には、岡本が思いを記した「宿願」が刻まれている=7月中旬、静岡市駿河区の静岡済生会総合病院
1945年5月に済生会浜松診療所が空襲で焼失し、県内で済生会病院の再建計画が上がった。48年、県が三菱静岡病院を買収し、県済生会に委託経営させる形で静岡厚生寮済生会病院が開院した。86年、静岡済生会総合病院に改称した。岡本一男は亡くなるまで院長に就き、診療だけでなく医学の研究も大事にした。

45年9月、三菱重工業静岡発動機製作所(同区の現三菱電機静岡製作所)付属病院として、三菱静岡病院が開院した。戦後の混乱と食料不足による飢えから脱しきれない48年6月、静岡厚生寮済生会病院として新たなスタートを切った。

「敗戦で打ちひしがれている人々を見て『愛、そして無私』を処世として、静岡済生会病院の復活に残る人生を賭けようと決心した」。岡本は心情をこう手記に残す。わずかな医療機器と医薬品以外、現金は皆無の状況で、職員18人でのいばらの道が始まった。早朝回診、外来患者の診療を終えると、午後は手術、タ方からは往診へ。榛原や富士方面など依頼があればどこへでも駆けつけた。診療代は家庭の経済状況に応じて受け取り、外地からの引き揚げ者が住むバラック住宅へも無料診療を買って出た。

岡本は名古屋医科大(現名古屋大)を卒業後、「貧しい者にも医療を」と仲間と共に無料診療所を開いたことがあった。その精神を保ち続け、戦後、障害児のための静岡療護園(現静岡済生会療育センター令和)の運営など福祉にも情熱を注いだ。

「サーブ・スマイリー」(笑顔で人に奉仕を)。病院の1日は、朝礼での岡本の一言から始まった。60年に就職し、後に総婦長を務めた森美智子(86)=愛知県岡崎市=は若い頃、岡本が患者の口元まで顔を寄せて訴えを聞いていた姿を思い出す。「患者がどうしてほしいか、気持ちに寄り添う医療をする大切さを学んだ」。森の看護師人生の指針となった。

岡本は、経営者として職員と家族を守る意識も強かった。自宅から見える病院に余分な明かりを確認すると、すぐに消灯を指示した。孫で現病院長の好史(63)が理由を尋ねると、「無駄はいかん。職員やその家族の生活がかかっている」と説いたという。

長女美技(90)=静岡市駿河区=は現在も現役の医師として患者を診察する。その姿は、戦中、戦後、人生を医療にささげた岡本と重なる。「父の『愛は無私』の信条は私の中に根付いている」と話す美枝は、こう続ける。「父が若い頃から抱いていた『愛は無私』は、過酷な戦争体験によって、一層強いものになったのだろう」(敬称略)
(社会部・佐野由香利が担当しました)